コラム:“ポール・へニングセン”とは 前編
“近代照明の父”ポール・ヘニングセンを探る
“近代照明の父”と呼ばれ、PHシリーズなどデザイン照明の名作を生みだしたポール・ヘニングセン。“デザイナーズ照明”と呼ばれる美しい作品が数多く存在し、暮らしに欠かせない存在になっていることを考えると、ヘニングセンが残した功績はとても大きいものです。
今回のコラムでは、多大なる功績を残した“ポール・ヘニングセン”という人物にフォーカスし、その思想を2回に渡り探ります。彼はどんな生涯を送り、どんなきっかけであの名作たちをデザインしたのでしょうか?
EPISODE:1ヘニングセンという人物
若くして開花した“照明デザイナー”としての才能
1894年、作家であるカール・エドワルドと女優のアグネス・ヘニングセンの第4子としてコペンハーゲンで誕生。両親の仕事の関係で幼少期から文化人との交流があったことが、“美しさを追求する”という彼のデザインに対する信念に繋がっています。16歳の頃、セルフポンピング式の自転車を発明してデンマークの財団から奨学金を得るなど、デザイナーとしての才能は若くして開花していました。
17歳になったヘニングセンは、建築家になるために高校を中退してフレデリクスベアにあるテクニカル・スクールで3年間、その後コペンハーゲンのテクニカル・カレッジで3年間建築工法を学びます。しかし、卒業試験直前に中退。発明家と画家としてのキャリアを選びましたが、その3年後にあたる1920年には建築家兼デザイナーとして独立しました。
26歳でフリーランスとしてのキャリアをスタートして間もなく、照明デザインを手がけます。
1925年にはパリ万国博覧会に出品した「パリ・ランプ」が金賞を獲得。この時パリ・ランプを共同開発した照明ブランド“Louis Poulsen/ルイス・ポールセン”とは翌年1926年に正式契約し、ヘニングセンが亡くなる1967年までそのコラボレーションは続きました。1958年にはヘニングセンの代表作となる「PH 5」が誕生。デザイナーズ照明の名作として60年以上経った現在でも世界中で愛され続けています。
照明デザインだけではない、ヘニングセンの“別の顔”
“近代照明の父”と呼ばれるだけあり、照明デザイナーの印象が強いヘニングセンですが、編集者、批評家、建築家、映画監督、画家、シンガーソングライターなど、その活躍は枚挙に暇がないほどです。
1920年代に良質な照明を追求する照明理論をデンマーク誌「クリティクス・レビュー」「ポリティケン」「NYT」、スウェーデン誌「FORM」などで発表しており、その理論に基づいて作られた照明作品がルイス・ポールセンから数多く発表されています。また、1954年にはオーディオブランド「Bang&Olufen」の批評をしたことで同社の製品開発が大きく変化。デザイン性と機能性を兼ね備えた現在の方針に繋がるなど、批評家としてもヘニングセンは高く評価されていました。
また、建築家としてのキャリアは照明デザインより早く1919年のこと。デンマーク学生ボートクラブを設計したのち、建築家カイフィスカーとの共同設計による住宅など手掛けたほか、コペンハーゲンの観光地としても人気の高い「チボリ公園」の建築主任も務めました。
他にもアルヴァ・アアルトが手掛けた「マイレア邸」の音楽部屋に置くピアノ(PH Piano)や1本の鋼管によって構成された1932年発表の「スパイラルチェア」など、家具やプロダクトも数多く発表していました。
照明だけでなく、幅広いジャンルでヘニングセンのクリエイティブな発想がかたちとなっていたのです。
ヘニングセンとヤコブセン、そしてアアルト
世界的に有名なデザイナーであるアルネ・ヤコブセンとアルヴァ・アアルトは、ヘニングセンの友人です。そして、1939年に勃発した第二次世界大戦を強く生きた仲間でもあります。
1940年にデンマークがドイツの占領下となり、43年にはレジスタンス運動が始まりました。デンマーク系ユダヤ人だったヘニングセン夫婦とヤコブセン夫婦は、ナチスによる迫害を逃れるために手漕ぎボートで海峡を渡り、スウェーデンへ亡命。その時彼らの手助けをしたのがアルヴァ・アアルトでした。アアルトが手配したアパートで身を寄せながら制作活動を行い、生計を立てていたのだそうです。
アルヴァ・アアルトの自邸には、ポール・ヘニングセンによるプロトタイプの紙製ランプが置かれています。世界にひとつしかない試作品がアアルト邸に置かれていることからも、その関係性が垣間見えます。
EPISODE:2"照明デザイン"との出会い
建築家・デザイナーとしてのキャリアをスタートしたヘニングセン。照明デザインに魅了され、自ら作品を発表した理由とは?
心地よく暮らせる工夫から生まれた、北欧の照明
デンマークを含む北欧諸国の夏は白夜や薄暮が続き、冬は寒く暗い。 そこで暮らす人々は、少しでも明るく心地よく暮らせるように工夫を凝らし、照明やキャンドルを効果的に置き、“光をデザインする”ことを意識していました。そのため、北欧諸国の照明はデザインや機能が優れており、世界中で愛されています。
“美術品”ではなく、必要な“もの”を作りたい
光を得られる環境はあるものの、まだまだ一般の人々は十分な光を得ることが出来なかった1920年代初頭。ヘニングセンは、建築を設計するにあたり“労働者に十全な生活環境を提供する良質な住宅をデザインすること”を使命としていました。そして暮らしの中に欠かせない良質な光が得られるよう、照明器具にも着目。理想的な照明器具のデザインを自身の理論に基づき、人生を通じて開発を行いました。
“私のつくる照明器具は美術品ではない”
ヘニングセンが発したこの言葉は、まさに彼の照明に対する思想そのものでした。照明器具がシャンデリアのような室内装飾の意味合いがまだ強かった時代。自身のデザインする照明は、機能に優れ、生活を豊かに支援するために必要な“もの”と考えていました。“照明器具を科学的な方法によって衛生面、経済面、美的側面において発展させること”を目的として、照明器具のデザインを手がけました。
「"ポール・ヘニングセン"とは」前編はここまで。
後編は“近代照明の三原則”に基づいて生まれたポール・ヘニングセンの代表作「PHシリーズ」が生まれるまでの話をご紹介したいと思います。